私は50年近く高校の教壇に立ってきた。
人生の大半を学校と言う世界だけで生きて来た井の中の蛙だが、その間、少年の自殺を避けて通ることは出来なかった。
この少年は自殺する危険性が高いことを察知しながら何んの予防手段も講じなかった情けない教員だった。数十年の時は流れても慚愧の念が消えることはない。
50年間の間に3~4人の自殺者を体験したと思うが、ハッキリした記憶が二人だけある。
一人はM高校在職中に出会った自殺者だが、放課後うなだれた元気のない生徒が一人部屋へ入って来た。この部屋に偶然居合わせた、生徒がこの部屋の女の先生に何やらボソボソ話していた。聞き終わった先生が突然大声で
「あなた何をうじうじ言ってるの‼あんた男でしょッ金玉あるのッ」
叱咤激励した。この生徒は恐らく全校の先生方の中でこの先生なら救けてくれるだろうと先生を選択して相談に訪れているはず。でも期待とは裏腹に突き放されてはとりつく島はない。
肩を落して部屋を出て行く少年の背をボクは声もなく見送ってしまった。
この少年がボクの授業を受けていて顔見知りだったら咄嗟に一声かけたと思うがお互い見知らぬ間、声をかけるのをためらってしまった。
翌朝、この生徒は列車に飛び込んだ。鉄道自殺したと悲報が飛び込んだ。彼には自殺しなければならない理由があったはず、昨日の先生の叱咤激励だけが直接の原因とは思えないが、行き過ぎた激励は逆効果をもたらすのでは…
様々な思いがボクの胸中に刺さった悲しい一件だった。こうした不祥事を新聞沙汰にする様なことはなかった。隠し通すのが学校の常識だった。
私のこうした生々しい実体験から、「自殺する生徒は勇気のある人間だ」と言う独断の哲学を得た。
勇気のない生徒は自殺する勇気もない。勇気のある生徒は先生の一言でも級友の一言でも重く受け止める。一言が強く胸に刺さる神経を持ち合わせているため、「逃げ場を失った」と感じた時、自殺と言う行動に一直線に走ってしまう。
私のたったひとつの体験だけですべての少年の自殺に当てはまるわけではないが、自から死を選ぶ少年はいない。救けを求めても得られない。これが自殺に走る導火線になることを先生方は銘記して欲しいとつくづく思う。
もう一人はN高校在職中出会った少年の自殺である。
或る日の放課後図書室の片隅で担任の先生と生徒の一人が話し合っていた。ハッキリした話しの内容は聞き取れなかったが、どうやら「宿題を出さない生徒」に対して先生が宿題を提出する様に脅迫?している様に感じた。
「出せ」と言う先生に「出さん」と言う生徒。この応酬が延々と続いていた。翌日、この生徒が家の裏の小舎で首吊り自殺したとの報、ボクは昨日の放課後の担任とのやりとりの結果逃げ場を失っての自殺行為と直観した。
学校はこの件をひた隠ししたが、ボクは後々のため、職員会議で生徒と先生との会話の一件を報告し、「生徒を追いつめてはいけない。必らず逃げ場を用意して指導して欲しい」と訴えた。
担任にとっては間接殺人に等しい行為だったのでは…自殺した生徒はがっしりした柔道部の猛者、こんな生徒が自殺するなんて考えられないが、考えられないことを行為するのが少年と言うものだ。
いくら柔道部の勇者でも逃げ場を失えば自殺以外に手段はない。自殺する生徒は勇者だ。こんな少年の命を奪う様な学校は学校ではないと思った学校だった。
あの時ボクが仲へ割って入っていたなら‥未然に防ぐことが出来たはず。返す返すも無念でならない。「ミネルバのフクロウは日暮れて飛び立つ」ヘーゲルの言葉通り「残念」の一語、少年の自殺は予防出来る、しないから起るのである。 |